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歴史上の人物〜甲斐源氏加賀美遠光とその一族
甲斐源氏の祖・武田信義の弟、加賀美遠光は、源義経らとともに源氏六受領に数えられた鎌倉幕府の重臣の一人。甲斐源氏の中では傍流ながら、本家武田氏に決して劣らぬ一大勢力として現在の南アルプス市の地に栄え、子は小笠原氏・南部氏らの祖となった。
- 加賀美遠光(かがみ・とおみつ 1143〜1230)
甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の曾孫にあたり、武田氏の祖・武田信義の弟。平家討伐の功績などから1185年源頼朝より信濃守に任じられ、源氏六受領の一人に数えられた鎌倉初期の名将。甲斐国加賀美郷に館(現・法善寺)を構え、子は小笠原氏・南部氏・秋山氏らの発祥。頼朝が巧みに甲斐源氏の勢力を削ぐ中でも、遠光個人への信頼は厚く生涯その家臣として活動した。地元では今も“遠光公”と親しまれている。
- 秋山光朝(あきやま・みつとも ?〜1185)
遠光長男。源平合戦に参じたが、平清盛の長男重盛の娘を妻としたため源頼朝の不興を買う。甲斐源氏の拡大を嫌った頼朝の謀略により1185年鎌倉勢に攻められ、夫人とともに雨鳴城で自害する。子は生き延び、後に武田氏に仕える秋山信友ら秋山氏の祖となった。館跡は現・熊野神社。
- 小笠原長清(おがさはら・ながきよ 1162〜1242)
遠光次男。甲斐国小笠原郷に館(現・小笠原小学校)を構え小笠原姓を称する。弓道に優れ、父・遠光とともに源頼朝の糾法師範として仕えた他、信濃守を務めた遠光の地盤を継ぎ、やがて小笠原氏は信濃の大名として、また庶流が全国に分かれ隆盛を極める。鎌倉時代以来の礼法を司り、流鏑馬の一流派を打ち立てた小笠原流の宗家として現在もその伝統を継承している。
- 南部光行(なんぶ・みつゆき 1165〜1236)
遠光三男。戦功で甲斐国南部郷(現・南部町)を与えられ南部姓を称する。後に奥州藤原氏討伐の戦功により奥州の領地を与えられ三戸城を築城。奥州の大名として江戸時代盛岡藩主を務めた南部氏の祖。
- 大井夫人(おおいふじん 1497〜1552)
武田信玄の生母。武田氏一門・大井氏の6代目信達の長女で、父・信達が国主・武田信虎との勢力争いに敗れた結果、政略結婚で信虎の正室となった。晴信(信玄)・信繁・信廉らを産み、夫の国外追放後も甲斐にとどまり55年の生涯を閉じた。大井氏が居城とした上野城(椿城)、大井夫人の菩提寺であった古長禅寺などの遺構がある。
学術研究・文化芸術
- 五味釜川(ごみ・ふせん 1718〜1754)
江戸中期の儒学者。1766の明和事件で処刑された尊王論者の思想家・山縣大弐の学問の師として知られる。巨摩郡藤田村に生まれ幼少より才覚を発揮。儒学の荻生徂徠の愛弟子・太宰春台に学び、護国学派の俊才と称された。郷里にて医業の傍ら塾を開いて里の子どもたちに教授し、自らも文理を極め一世を風靡した。藤田の泉能寺にその墓がある。
- 名取春仙(なとり・しゅんせん 1886〜1960)
画家。夏目漱石・島崎藤村らの新聞小説の挿画や石川啄木ら文芸本の装幀口絵等を手掛ける他、演劇界との結びつきも深く、役者絵版画を数多く残し、歌舞伎浮世絵版画の最後の巨匠とも呼ばれた。平成3年開館した市立春仙美術館では9世市川海老蔵(11世団十郎)、7世松本幸四郎など歌舞伎の役者絵版画を多数所蔵・展示している。
- 内藤多仲(ないとう・たちゅう 1886〜1970)
建築家・建築構造学者。専攻は耐震設計。構造設計を担当した日本興業銀行や歌舞伎座が関東大震災で被害を受けず、その卓越した理論が実証された。東京タワー・通天閣・さっぽろテレビ塔・名古屋テレビ塔など鉄骨構造のタワーの設計を数多く手掛け、耐震構造の父とも呼ばれる。1962年文化功労者。
- 福田甲子雄(ふくだ・きねお 1927〜2005)
俳人。飯田蛇笏・飯田龍太の流れを汲み俳句誌「雲母」「白露」に関わる。1960年飯田龍太に入門。飯田龍太研究の第一人者としても知られる。重厚な風土性を持つ句で知られ04年句集「草虱」で第38回蛇笏賞受賞。ほかにも句集多数。読売新聞俳壇選者。
- さいとう大三(さいとう・だいぞう)
作詞家。西条秀樹「傷だらけのローラ」、チェリッシュ「てんとう虫のサンバ」、リンリン・ランラン「恋のインディアン人形」、美空ひばり「裏町酒場」などの代表作を世に生み出し、今なお歌謡界において活躍している。日本作詩家協会理事。
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